何やら甲高い話し声が聞こえてくる方向に視線を向けたマティルダは、そこに複数の軍服と、真ん中でマイクを持って何やら偉そうに演説している男の姿とを見出した。放送局独特の大きな集音マイクに加え、テレビカメラの姿もある。わざわざスーツをぴしりと着込んでいるところが、マティルダの癇に障った。言うまでも無く、石川軍の放送局だ。ちなみに、占領下でのテレビ番組は極めてつまらないものに変わっている。民放がことごとく放送停止に追い込まれたうえ、唯一のチャンネルが石川駐在軍によって運用されているからだ。これがとにかくつまらない。陰気な顔のおっさんが延々と演説していたり、石川語の教育番組らしきものが放映されたり、マティルダにとって楽しかったのは、赤いフランカーの航空部隊のドキュメンタリーくらいのものだった。でも、それさえも繰り返し繰り返し同じ映像が流されているのでは次第に飽きてくる。石川の人たちはよくもこんなものばかり見せられて平気なものだ、と違う意味でマティルダは感心していた。そういう放送局の人間だけあって、聞こえてくる言葉も何だか平凡なものばかり。かつての魚沼の放送局のアナウンサーたちのような豊かなボキャブラリーとは、どうやら無縁であるらしい。必要以上に張り上げる声が、また気に食わない。そうでなくても、石川軍人の存在自体、鬱陶しいものであるのだから。

「――ここ、新南魚沼中央駅の広場にも、哀れなストリートチルドレンたちの姿が見えます。彼らが正しく豊かな生活を送ることが出来るよう我々は日々努力しておりますが、成果をその一人にマイクを向けてみたいと思います」

唐突に「気に障る」声が耳元で聞こえ、マティルダはじろりとその方向を睨み付けてしまった。先ほどまで少し離れたところにいるはずの放送局の面々が、いつの間にか自分の側に来ていたのだった。厳密には、アナウンサーとマイクだけが近くにいる、というところか。テレビカメラ本体は駅広場の方に向けられていて、マティルダたちの姿を捉えているわけではなかった。アナウンサーらしき男は、一方の手でマイクを持ち、一方の手には何故かチョコレートを持っていた。

「ねえ君。同じような哀れな生活をしている仲間たちのためにも、協力してもらえないかい?私たちは、魚沼の国を正しく導きたいから、ここに来ているんだよ。一言でいいから。"石川の兵隊さんたちのおかげです"とでも言ってくれれば、このチョコレートをあげるよ」
「ホントに?うわー、チョコレート久しぶりなんだよねぇ」

そう言いながら、マティルダは素早く逃走ルートの確認をするために目を動かした。チョコレートは確かに捨てがたかったが、かといって無条件に石川の人間を信じられるほど、マティルダも子供ではなくなっていた。マティルダの沈黙を了解と考えたのか、アナウンサーがマイクを差し出してきた。彼の浮かべている不似合いな作り笑いが気に入らず、従順な天使ぶりを演じようとしていた彼女のスイッチは、悪魔モード全開へと切り替わった。パパの悪友たるおっちゃんが教えてくれた、「いざという時の身を守る方法」を実践する時は今、と確信したのである。今の身長じゃ一番きついのは無理、だけど2番目にきついのは打てる。しっかりと反動を付けて、関節のバネを活かして、容赦なく思い切り振りきること。こうすれば、大抵の男は追ってこれない。実際、パパに実演してみたらママの悲鳴が聞こえてきたっけ。確かその後、おっちゃんは両家のママからきつく叱られていたような気がする。もっとも、ニーナお姉ちゃんに「あれ、私も教わって、パパにかましちゃったんだよねぇ。滅多なことでやっちゃ駄目だよ」と言われて、どれだけ「痛い」ものなのか初めてマティルダは理解したのだが……さて、この相手はどうなることやら。ほんのちょっとの同情を爪先に乗せて、右足に最大限の加速度をかけて力いっぱい振り上げた。

天使とダンスでもしてな!! 「天使とダンスでもしてな!!」
「ぐえぇぇぇっ!?」

足先に肉が食い込む嫌な感触はクリーンヒットの証。真っ赤な顔になって倒れこむ男の無様な姿に爽快な笑みとウインクを投げ付けて、マティルダは全速力で駆け出した。あまりに唐突に起こった目の前の事象を呆けたように眺めていた男たちの意識が現実に引き戻されるまでにはそれなりの時間がかかっていたが、大人の足の速さを侮るほどマティルダも子供ではない。最初のスタートダッシュでどれだけ安全圏へ逃れられるかだ、と計算しながら、マティルダは古い町並みの小路へと飛び込んでいく。ようやく本来の役目を思い出したのか、背後からは甲高い笛の音と重い軍靴の足音が複数追いかけてくる。小路の途中に古びた大きなポリバケツを見つけたマティルダは、一旦立ち止まって、思い切り水平蹴りをぶちかます。ぐわん、という音と共に中に詰まっていたゴミをぶちまけたバケツが、ちょっとした障害物として転がったのを確認して、マティルダは再び走り出した。背後で重いものがひっくり返る音と怒声とが聞こえてきた。舌を出しながら前を見る。ほとんど車が通ることの無い道を挟んだ向こうは、ダウンタウンのさらに入り組んだ小路へと変わる。もし車が来たら横ステップ、10メートルを奪取で超えて、後は撒くだけ――猫のような敏捷さを発揮して走るマティルダの足の速さと地の利は、常に彼女の味方だった。壁に囲まれて薄暗い道から太陽の下へと飛び出したマティルダは、次の瞬間壁や車の硬さとは違った何かに思い切りぶつかって、弾き飛ばされてしまった。一瞬にして地面が目の側に近付き、視界の風景が直立する。