空になったグラスの中で、氷の欠片がキン、と渇いた音を立てる。照明が抑えられた店には、80年代のジャズが静かにかかっていた。そのカウンターの一席に座った男は、しばらく空いたグラスを手にしたまま動かない。つまみに頼んだらしいチーズの盛り合わせは、まだ半分も手が付けられていない状態だった。その様子に気が付いた店主は、軽くため息を吐き出した。

「重傷だねぇ。そんなに落ち込んでいるアンタは久しぶりに見るよ」
「ママ、すまねぇがもう一杯だ」
「さっきので前からのキープボトルは空いてるよ」
「じゃあ新しいのを付けてくれ」

俯いたままそう応える男の前に、店主は封を切っていないリッターサイズの白いパックを置く。男は驚いた表情で何度か瞬きをした後、苦笑を浮かべる。

「あのな、ママ、これは……」
「それじゃあ、こっちの方がいいのかい?」

店主がカウンターの上にさらにダメ押しのように置いたのは、封を切っていない粉ミルクの缶だった。

「それならあたしの奢りにしといてあげるよ。好きなだけ白湯で溶かして飲むといい」
男は仕方なく、牛乳パックの封を開けてラッパ飲みにする。

「とても健康的な味だぜ。酔いが一気に醒めそうだ」

「それでちょうどいいんだよ、アンタには。全く……グレースメリア最凶の愚連隊だの、狼輪愚の王だの呼ばれた男にしちゃあ、少し情けないんじゃないのかい、アーサー?」
「そんなこと言ったってよ、あっちは本気で怒っているんだぜ。そりゃあ俺も悪いけど……」
「そうだねぇ。据え膳食わぬは何とやら……って、同僚たちの罠にまんまと引っかかってつまらん写真を撮られたアンタが全面的に悪いわな。あの子の性格考えれば、その後どうなるかくらい分かるでしょうに」
「面目ない」
「ま、やっちまったモンはしょうがないからね。ちゃんと素直に謝って来ることだよ。その顔に新しい傷が増えるかもしれないけど、あの子はちゃんと許してくれるさ。アンタがベタ惚れなように、あの子だってアンタに今でもベタ惚れなんだから」
「だといいんだけどな……」

苦笑いしながら、アーサーは牛乳パックを傾ける。もともと酒に飲まれることなどほとんど無い男の瞳に、生気が蘇るのを見た店主は、やれやれ、と聞こえないくらいの声で呟いた。

「バイクのハンドルを操縦桿に持ち替えた時、自分で何て言ったか覚えてるかい?死ぬまで飽きることがなさそうだ――そういう台詞を吐けるアンタだからこそ、あの子は付いていったんだよ。今はどうだい?同じことを言えるかい?」
「――それとこれは別さ。当たり前。空にいる間は最高さ。それに……久しぶりに後ろに乗せたら楽しそうな奴も見つけたしな」

そう言いながら楽しそうに笑うその姿は、昔と変わらぬ悪童の姿そのままだった。牛乳を一気に飲み干したアーサーは、少し古びてきたスコードロンジャンパーのポケットから、紙幣と小銭を取り出してカウンターに置く。

「今度の休暇にでも、詫びに言ってみるよ。大好物のプリンでも持ってな。……ママには世話になりっぱなしだな」
「なに、昔のよしみさ。うまくいったら、そんときは一杯あたしに奢ること」
「分かったよ。じゃあな」

ドアに付けられたベルがガラン、と鳴り、そして扉が閉じられる。去っていく男の足音を聞きながら、店主はカウンターの上に残されたグラスを片付け始める。何事も無かったのかのように、カウンターに備え付けられたスピーカーからは、静かにジャズの旋律が流れ出していく。この店の中だけ、まるで別の時間がゆったりと流れているかのように――。